人はなぜ勉強しなければならないのか?(パリ編)
パリのシテ島に高くそびえるノートルダム寺院の屋上の片隅に立って、僕はぼんやりと眼下に広がるパリの街々を眺めていた。
抜けるように青い空の下に無数の家々の屋根があり、遠くの小高いモンマルトルの丘の上に白亜のサクレクール寺院が真夏の日の光を受けて美しく輝いていた。
僕はまるでビデオ・カメラを回すかのようにゆっくりと自らの視線を上下左右に回した。僕の目のシャッターは開きっぱなしで、エッフェル塔や凱旋門やコンコルド広場といったモニュメントが次々と網膜に照射された。
“なんて美しい街なんだろう、パリは!”
僕は心の中でそうつぶやき、眼下のセーヌ川をゆっくり移動する遊覧船にじっと見入っていた。
船の中には色とりどりの服を着た観光客の姿があった。船上の人々の顔は歓びに満ちあふれ、湖畔のプロムナードを行き交う人々の流れもゆったりとして、平和そのものに感じられた。
いったい、どのくらいの間、僕はそんな光景に見入っていたのか……。
時の経過を思い出すことはできない。でも、その時のまるで天国のような美しい情景だけは、あれから18年を経た今でも鮮明に思い出すことができる。
そして、あの時自分を不意に襲った理由もない悲しみについても……
その後の、この18年の体験の中で僕は1つの真理を知った。
それは、何か美しいもの何か心魅かれるもの、歓びと平和と光明は、それとは裏腹の、醜さや悲しみや暗黒の世界と対極にあるのではなく、僕の心の内に渾然一体としてあるのだということを。
そして、真夏の日差しが強ければ強いほど、その陰もまた闇の度合いを強めるのだということを……。
- 人は、なぜ友を求め、愛を求め、真理を求め、美を求めるのであろうか?
- 人は、なぜ他の動物と違って芸術を生み、天の授かり物としか思えない肉体(生命)を自ら断つのであろうか?
- 人は、なぜ自らを大きく理解し、愛し、信頼してくれる人を傷つけ、逆に自らを恐怖で縛りつけ、自在に操ろうとする人に従順に従い自己を裏切り傷つくのか。
僕はこれらの疑問をずっと抱き続けてきたが、未だに明確な回答を得ていない。ただ、これらのことは、おそらく人間が不完全で矛盾に満ちており、諸々の弱点を持っているからだろう、と考えている。
私たちは、いかに教養を積み知識を積んでも、それによって人生に安定や安心が得られるとは限らない。しかし、知識に対する好奇心と、その努力――いわば夢追う心が現代の文明をもたらし、私たちに軽便で快適な暮らしを与えていることも事実である。そして私たちに健全な精神と豊かな心を培ってくれるものは、人それぞれの目標に対する日々の努力によって自らの精神に磨きをかけ、心を鍛えることにある。それが人の個性を輝かせ、創造性にあふれた人間を造ることになる。
……だから私たち(教師も生徒も)は勉強しなければならないのである。
私たち板倉学園講師は常に、人生とは、人間とは、存在とは何かを考え、これを根底に教育に当たらねばならない、と考えております。





